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平家落人の足跡探訪
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宇佐市院内町に伝わる
平家落人の足跡探訪
 壇ノ浦、最後の決戦に破れた平家一門は、源氏方の厳しい追討を逃れ、九州にも多くが隠れ住んだとされる。それは熊本県の五家荘や宮崎県の椎葉村、あるいは鹿児島県の喜界島などが特に有名であるが、ここ大分県にもその足跡を見ることができる。

 宇佐市院内町。宇佐神宮から南へ車で約三十分くらい、院内道の駅の先の山間部にある「大門」「月俣」という地域は、かつて壇ノ浦の合戦に敗れた平家一門が落ち延び住みついたといわれている。いわゆる落人部落・平家の里といわれる地域なのである。
 その平家というのは平清盛の腹違いの弟であり、壇ノ浦において壮絶な合戦の後、遂には入水して果てたと伝えられる平教盛(門脇中納言)の一門である。
 伝承によると、女子供を主とした一行が駅館川を遡り、目に付かぬ山道を辿りこの地に落ちてきたという。しかし源氏方の追討により七人の武将が討ち取られたといわれ、その七人が眠る塚を先祖代々八百余年にわたり守り続けてきたのが門脇家である。
 「平家七人塚」と称するその塚は大門の山中にあり、長年秘匿されてきた。やがて第三十五代当主・門脇正夫氏により初めて一帯が整備され、一般の参拝が可能となり、琵琶の演奏が奉納されるなど、子孫一族の供養に対する思いはますます高まりつつある。
 塚は直径約二・五メートル、高さ約一メートルのほぼ円形に近い形をしており、自然石を積み上げるという平安末期特有の石積墓の形をとっている。したがって供養塔などとは区別され、非常に貴重な「生墓」といわれ、考古学会からも注目を受けているものだ。
 また、その塚の周囲一帯は「経塚」といわれているのであるが、これは平安末期に「法華経」の経典や経文を筒に入れ、土中に埋めたところを示す地名である。
 昭和初期までは行者がたびたび訪れて経を詠んでいたという証言も残っている。
平 資盛(すけもり)
 平清盛の嫡男である平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。
 嘉応二年(1170年)七月三日、摂政・松殿基房の車と行き違った時に下馬の礼をとらなかったため、基房の家来と乱闘騒ぎを起こして資盛は恥辱を受けて逃げ帰った。これを知った父・重盛が基房に対して徹底的な報復を行っている。これを殿下乗合事件という。
 以仁王の挙兵に際して、源頼政と宇治平等院で戦いこれを滅ぼした。同年十二月、知盛とともに近江国へ出陣して山本義経を破る。
 壇ノ浦の戦いで敗れ、平氏西走の道中、兄弟が次々と脱落していった中で最後まで一門として踏みとどまった資盛は、一人残った弟の有盛と従弟の行盛とともに壇ノ浦の急流に身を投じて自害したとされるが、奄美群島には、資盛が行盛や有盛らと共に落ち延びたという伝説が残っており、行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られている。資盛がもたらしたと言われている重要無形民俗文化財に指定されている「諸鈍シバヤ」などの風習も残っている。
 写真は平資盛公第三十三代当主・平清吉氏建立による招魂碑。


安徳天皇
 第八一代天皇。諱は言仁(ときひと)。父は高倉天皇で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)。数え年三歳(満一歳四ヶ月)で即位するが、幼年のため実権はなく政治は清盛が取り仕切った。
 壇ノ浦の戦いで敗れ、安徳天皇は、最期を覚悟して神爾と宝剣を身につけた祖母二位尼(平時子)に抱き上げられると、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。安徳天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年八歳(満六歳四ヶ月)で崩御した。
 しかし生存説もあり、各地に安徳帝の墓が存在する。福岡県嘉麻市にも古い墓が一基残されており、嘉麻平家の里により手厚く崇敬されている。
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